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第十九番霊場 牛宝山 明王院 最勝寺 目黄不動尊 |
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平成廿三年八月四日 |
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4日 東京大手町 最高気温 31.1℃ 最低気温 24.3℃ 晴れ時々曇り |
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牛宝山 明王院 最勝寺 目黄不動尊 法挾護(ほうきょうご)童子
天台宗 |
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御詠歌 ありがたや 目黄に托して 祈る身は 心願叶えて 光り輝く |
御朱印 | 御影 | 法挾護(ほうきょうご)童子 |
最勝寺の縁起 |
最勝寺は、慈覚大師が貞観2年(860)隅田河畔に一寺を建立して創建、良本阿闍梨が中興、明治維新まで牛島神社の別当を務めていたといいます。 大正2年に本所表町(墨田区)から移転したといいます。 |
「江戸川区史」による最勝寺の縁起 |
最勝寺(平井一丁目二五番三二号) 天台宗で牛宝山明王院と号し延暦寺を総本山とする。 もとは本所表町(東駒形)にあったが大正二年現在地に移転した。 開山は慈覚大師で貞観二年(八六〇)東国巡錫のみぎり隅田河畔に一寺を建立したのが始まりで、後に良本阿闍梨が中興した。 江戸時代になってから本所に移転し、明治維新にいたるまで牛島神社(墨田区)の別当をつとめた由緒ある古刹である。 内陣は鉄筋で大金庫式に造られて釈迦如来をまつり、別室の不動堂には不動明王と大日如来を安置する。 この不動明王は府内五色不動の一つである「目黄不動」として知られている。また大日如来立像はもと牛島神社の本地仏としてまつられていたが、明治維新にいたり神仏分離の時この寺に移された。 本所にあった頃は三重建築の仁王門があり朱塗りの色が美しく俗に「赤門寺」と称されていたが老朽のため取りこわし、現在は石柱の門前に仁王尊だけが安置されている。 寺宝として渡来仏の毘沙門天像、大般若経六百巻、法華経などがあり、墓地には鳥亭焉馬(戯作者)、富田木歩(俳人)の墓及び柔道家徳三宝夫妻の墓と頌徳碑がある。 (「江戸川区史」より) |
「江戸川区の文化財」による最勝寺の縁起 |
最勝寺は、目黄不動で有名である。天台宗で牛宝山明王院と号し、もとは本所(墨田区)表町にあって牛島神社の別当であったが、大正2年(1913)区画整理のため当地に移転した。 開山は慈覚大師で貞観2年(860)隅田河畔に一寺を建立したのが始まりで、後に良本阿闍梨が中興した。 本堂の内陣は鉄筋で大金庫式に造られ、その中に本尊釈迦如来を安置する。 別堂の不動堂には不動明王と大日如来を安置する。 (江戸川区の文化財より) |
「本所區史」による最勝寺の縁起 |
最勝寺は表町六十五番地に在り牛寶山と號し明王院と稱した。 天台宗で浅草寺の末である。元慶元年慈覺大師の高弟僧良本の開設する所といふ。 もと向島須崎牛島神社の別當であつた。 本尊釋迦如来は慈覺大師の作にして境内に鎮座せる不動尊は府下五色不動の一なる目黄不動である。 此不動尊はもと末寺東榮寺に在つたが、同寺廢するに及んでここに移した。其の他昔日牛御前の本尊であつた大日像及び大黒の像があり、寛永の頃将軍家光公境内に休憩の假殿を造つたことがあつたので御殿山と唱へ大樹があつた。 大正の初め南葛飾郡下平井に移轉した。 (「本所區史」より) |
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目黄不動尊 |
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目黄不動尊(ブログありさ鉄道より) |
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目黄不動尊最勝寺 不動堂内部
不動明王の左右に脇侍の制多迦童子と矜羯羅童子が付き添い, 四方は,金剛夜叉明王・降三世明王・大威徳明王・軍荼利明王が取り囲んでいます。 (ブログありさ鉄道より) |
江戸五色不動 |
五色不動は江戸五色不動とも呼ばれており、江戸幕府三代将軍・徳川家光が大僧正・天海の建言により江戸府内から五箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来するなどの伝説が存在する。 一方で五色不動を歴史的に研究したいくつかの報告によると、実際に「五色不動」という名称が登場するのは明治末または大正始めであり、江戸時代の史実とは考えにくいとしているが、伝説自体は江戸時代から伝わる噂話に原型が見られるという。 また名称を別とすれば個々の寺院や不動像自体は江戸時代(以前)からの歴史をもつとされる。 |
伝説 |
各寺の説話や、フィクションなどにおける伝説等については細部でばらつきが見られるものの、おおむね以下のような内容が語られることが多い。ここではそのような伝説について記し、史実についての補足は別節に記すものとする。 五色となっているのは五行思想の五色(ごしき)からと言われる。 寛永年間の中旬、三代将軍徳川家光が大僧正天海の具申をうけ江戸の鎮護と天下泰平を祈願して、江戸市中の周囲五つの方角の不動尊を選んで割り当てたとされる。最初に四神相応の四不動が先行し、家光の時代ないしは後年に目黄が追加されたとして語られる場合もある。 五色とは密教の陰陽五行説由来し重んじられた青・白・赤・黒・黄でそれぞれ五色は東・西・南・北・中央を表している。 また、その配置には五街道との関連も見られるほか、五色不動を結んだ線の内側が「朱引内」あるいは「江戸の内府」と呼ばれたという都市伝説が語られることもある。 |
史実 |
江戸時代以前に目黒・目白が存在している。 また、江戸時代初期の動坂には、伊賀の赤目に由来する赤目不動があったが、家光の命により目赤と名乗るようになり現在地へ移ったと称する。 以上三つの不動については、江戸時代の地誌にも登場するが、天海と結びつける記述はまったく見られない。 教学院はもともと青山にあり、「青山の閻魔様」として親しまれていた。 目黄不動は二箇所が同定されているが、いずれも浅草勝蔵院にあった「明暦不動」(後になまってメキ不動と呼ばれたこともある)に近く、その記憶から目黄不動とされたのではないかと推測される。 いずれにせよ、江戸時代には目がつく不動が三つしかなく、それをセットとして語る例はなかった。 前述の五街道との関連も、江戸の地理条件に由来する多少の偶然と考えられ、五色不動を結んだ線の内側が「朱引内」あるいは「江戸の内府」と呼ばれたという説についても史実ではない。 |
伝説の原型 |
以上のような背景から、天海の結界に始まる一連の五色不動伝説は近年作られたものと言われることもあるが、一方で江戸時代にも噂話(都市伝説)として史実とは別に語られていた可能性も指摘されている。 寛保元年(1741年)の『夏山雑談』の記述では天海が四方に赤・黒・青・白の四色の目の不動を置いたとされ、さらには前述の浅草勝蔵院の「目黄」不動の噂にも言及しているが、当時は目青や目黄の裏付けは取れなかったようである。 その後、文化5年(1808年)の『柳樽四十六篇』では、 いずれにせよ明治以降、複数の目黄が乱立し、目青が登場し、従来の三不動も五色不動を名乗り始めた背景には、こうした都市伝説の影響があったのではないかとも言われている。
(Wikipediaより) |
五色不動の場所 |
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