関東三十六不動霊場
関東三十六不動霊場
第十七番霊場 瀧轟山 明王院 万願寺別院
等々力不動尊

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平成廿三年七月廿四日


24日 東京大手町    最高気温  30.3℃   最低気温   22.7℃ 曇り時々晴

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瀧轟山 明王院 万願寺別院

等々力不動尊

持堅婆(じけんば)童子

真言宗 智山派


御詠歌

渓谷を

こめてとどろく

ひびきこそ

法の誓いの

深きしるしぞ

御朱印 御影 持堅婆(じけんば)童子


お寺の縁起
等々力の御不動様と親しまれる等々力不動尊は、真言宗中興の祖興教大師様が夢のお告げにより開かれた霊場です。
ある時、興教大師様が信心する役之行者作の御不動様が夢に現れ、関東に霊地があると告げられます。
その御不動様を背負って関東に入ると夢と同じ渓谷があり、錫杖で岩をうがつと玲瓏と瀧が流れ出しました。
そこに捧持の御不動様を安置したのが等々力不動尊の始まりです。
等々力渓谷を擁しせせらぎのある境内には、四季折々に花が咲き、鳥が訪れ、春の桜や秋の紅葉の美しさは格別です。

等々力不動尊明王院の縁起
等々力不動尊明王院は、根来寺の興教大師(覚鎫版人、新義真言宗の祖)が当地に不動堂を建立したと伝えられます。

せたがや社寺と史跡による等々力不動尊明王院の縁起
滝轟山明王院
本尊は不動明王で真言宗智山派に属し満願寺の別院で、寺伝によれば、 1300年前推古帝の頃、役の行者(役の小角〉が霊夢を見、不動尊を彫られた。
800年前、和歌山の根来寺の興教大師がある夜夢を見られ「武蔵野国調布の丘」に不動尊を祀るよう告げられた。
大師は不動尊を背負って、「調布の丘を経巡り、此地に来たり、澤泉を山頭より噴出するを見、併も山頭の辺り瑞雲霊愛雲建す。
大師はその霊地なるを悟り、一宇を建立す。」「玉川栞」と、開基が物語られている。
本堂は、江戸末期の建造である。
拝殿は昭和27年、山門は、昭和43年8月、満願寺改築の折移築したものである。
寺の南にある公園は、桜の名所として知られているが、玉川村耕地整理の折、村長豊田正治氏の発案の玉川村三公園の一つであって、氏の慧眼がしのばれる。
寺の西、石段の途中にある「神変大菩醸」は、役の行者の諡で行者をまつってある。
石段を降りると二条の不動滝があり、今も行者が朝夕白衣を着て滝にうたれている姿を見かける。
普は相当な水量があったらしく爆音が轟いたので「トドロキ」の地名が生まれたとの伝説がある。
この滝の崖は、上から黒土層、ローム層、含砂利層、粘土層と模式的な地層を示している。
この一帯は谷沢川(やざわ川、土地の人はやざ川という) 「等々力渓谷」といわれているが、多摩東岸の河岸段丘の隆起に先行して浸蝕し横谷を作ったと思われる。
環状8号線や、宅地造成によって自然美が随分失われたが、ゴルゴ橋から六郷用水との川の立体交差点、までは東京とは思われぬ渓谷美であり、プロムナードとなっている。
また動物植物の宝庫でもあり、つい最近までここで、狐を見たという人がある。
谷沢川の上流の姫滝には、悲恋の伝説があったが、その滝は今はない。
場所は野良田(世田谷区中町)である。
                              (せたがや社寺と史跡より)

新編武蔵風土記稿による等々力不動尊明王院の縁起
(等々力村)不動堂
字小山にあり、境内満願寺領なり。
本尊はなし、今は幣束を立て祭れり。
相傳ふ、当社の本尊不動尊は、昔故あって目黒村の内某なるものにかせしを、そのまま返さず、今目黒の不動尊と云もの是なり。
よりて此堂には昔より本尊もなけれど、いかにも古社なれば世々村の鎮守としてあがむと、然るに目黒村不動堂別当所に傳ふる所は、かの堂は往古よりたてりしを、後に慈覚大師その地に来りしとき、村民の求めに応じて作りし不動尊なりといへり。
事は其條下につきて見るべし。
さればここに傳ふる所と何かまことなりや、今より知るべからず、しばらくきくままを爰にしるせり。
本社一間四方、坤に向ふ。
上屋三間、拝殿は二間に九尺にして巽に向ふ。
例祭九月二十八日なり、別当を西光寺と云。
末社諏訪天神稲荷合社。
本社の右にあり。                    (新編武蔵風土記稿より)


暮らしのblogより


                                                                                                                                                 
14時04分 三軒茶屋駅から電車に乗りました。 どこまで行けばいいのかな。 
二子玉川駅で
東急大井町線に乗り換えます。
東急大井町線等々力駅で降り、踏切を渡りました。
等々力渓谷入口    14時22分下に降ります。

お願い
等々力渓谷の水は、雨が降ると急に増える場合があります。
この付近だけではなく上流域で雨が降っているときや激しい雨が予想されるときは、
中に
入らないようにして下さい。

結構長い渓谷なんですね。 等々力不動本堂までありますね。  この道を進めばいいんですね。
木道になっています。 段差もついています。 ここは植物を植え付けたようです。
橋を渡ります。 谷沢川 環状8号線の下を通ります。
上に出られる階段です。
増水したときの避難路でしょうか。
橋があります。
等々力不動尊
多摩川まで700M →

等々力駅まで500M
←   野毛大塚古墳
玉川野毛町公園

橋を渡ります。         等々力渓谷の湧水       

現在地を確認します。 

名勝 等々力渓谷等々力不動尊境内

弘法大師御誕生
一千二百年記念
慶讃大法要
昭和50年4月6日 奉修
稚児大師尊像 制作
芸術院会員 清水多嘉示

堂宇 設計
畠山博茂
慶讃大法要大導師
満願寺第二十六世 龍文
 
稚児大師御影堂の石版より



稚児大師さま
小さい手を合せているお姿は弘法大師の幼いときの お姿です
弘法大師の時代は 大学としては 高位の貴族の師弟が 官僚になるための大学が唯一つでした 
弘法大師はこれに対して 庶民のだれでもが学べる庶民のための大学である綜芸種智院を創設しました 
綜芸とは総ゆる学芸を統合すること 種智とは 智恵を植えることです 
その智恵は やがて 大きく成長し 色々な局面や難しい事態に出会った時正しい判断をする決断力となって発揮されます 
智恵とは 密教では決断力のことです
知識だけでは 物事の判断は出来ません 
その智恵を養うのが あらゆる学問技術文学芸術書 思想を広く学び 総合することです
弘法大師の創った大学は 月謝もなく教授から学生まで宿舎も完備して給食付でした
弘法大師は 幼いとき 土で仏さまを造って草や木の枝で造った御堂に祀って手を合せました
この稚児大師像は 芸術院会員清水多嘉示先生につくって頂き お子様にも 拝みやすいように低く安置いたしました
尚 弘法大師の幼少期は奈良時代ですが古くからの多くの稚児大師像のように平安時代の服装で製作していただきました
平成十一年一月
満願寺 貫首 龍文 合掌


稚兒大師

弘法大師のお小さいときを稚兒大師さまといいます
弘法大師は 歴史のページが 奈良時代から 平安時代へと 大きく開かれようとした宝亀五年(774)に
讃岐(さぬき)の国(今の香川県)にお生まれになりました。
弘法大師は その頃世界の国際都市の長安(中国の西安)に行って 真言の教えを伝え 日本に弘められました。
その教えは すべての人々の生命の中に み佛(ほとけ)の尊い生命(おいのち)が具っているので 
その生命に目覚めるとき 豊かな心で 力強く生き そのことで まわりの人をも 仕合せにするという教えです。
ですから お大師さまは 文化の面でも 学芸 教育 文学 書道 絵画 彫刻 工芸 建築 治水と あらゆる分野で活躍されました 
四国の満濃池(まんのういけ)は 相模湖ぐらいの 人工湖です 
これをダムの工法として最も優れたアーチ式ダムで満々とした水をたたえ 人々の暮しに役立てました
教育では その頃 貴族のための大学しかなかったのを日本で始めて庶民のための大学を造られました 
これが綜芸種智院です 綜合的に幅広く学んで 知識としてではなく本当の智恵を自分のものとすることを目指したのです 
こうして人々の幸せのために尽くされた弘法大師は あらゆる面での日本文化の恩人として 
お大師さまと仰がれ お大師さまとして慕われているのです
昭和五十年(1975)は 弘法大師のご誕生の千二百年でした 
そこで お大師さまのご幼少のお姿 可愛らしい両手を 合せていらっしゃるところを 
清水多嘉示先生(芸術院会員)にお願いして おつくりしました。
お大師さまは 幼いときの子供達との遊びにも 小枝や草で小さな御堂をつくり 
屋根を葺き 土でみ仏をこしらえて手を合わされたと言われ 
夢の中では 蓮の台にのって み仏さまと物語りをしたということです
お手さまたちが 稚児大師さまと同じように手を合わせ そのみ教の通り 
やがて その心に宿る尊い生命を 美しく花開かせて 光り輝くことを 祈ります
平成八年 六月 十五日 再記
                           満願寺
                                                           貫首 龍文 合掌

等々力不動尊の湧水 弘法大師と観音様の像
稚児大師御影堂を出てすぐのところに
湧水を利用した御手水場があります。
私は逆からきたので、
ここで手を清め口をすすいでから
お参りするのが正式なのだった。
必ず煮沸して下さい
御手水場とは別に湧水をくんで
持って帰れるようになっている、
かつてはそのまま飲めたはずなのだが、
現在では下のような大きな注意書きがあった。
「必ず煮沸して下さい」の注意書き。
しかし、等々力渓谷は出るものが出ると
うわさの絶えない場所だけに
パワーのありそうな水ではある。
等々力渓谷  正一位稲荷大明神
東京都指定名勝
等 々 力 渓 谷
                      所在地 世田谷区等々力二丁目外
                 指定 平成十一年三月三日
等々力渓谷は、国分寺崖線(がいせん)(ハケ)の最南端に位置する延長約1キロメートルの都内唯一の渓谷である。
谷沢川(やさわがわ)が国分寺崖線に切れ込んで侵食したもので、台地と谷との標高差は約10メートルある。
渓谷の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに、
常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水(ゆうすい)の出現が認められる。
玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から十三年にかけて谷沢川の流路を整備し、
小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることも稀で、
雉(きじ)などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。
都区内とは思えないほどの鬱蒼(うっそう)とした樹林と渓谷美は、幽邃(ゆうすい)な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残している。
東京を代表する自然地理的名勝として貴重であり、植生学、地質学及び地形学上重要である。
平成十一年九月
東京都教育委員会


これが等々力不動尊発祥のもととなった不動の瀧。
龍の口から湧水が流れ落ちている。
湧水が途絶えることは無いそうだが、絹の糸ほどの水量ゆえだろう。
壮大な滝や落差を誇る滝は多いが、
この規模のものを瀧と言い張るのは考えようによっては素晴らしい事かも知れない。
目に見えるもの以上に心の中での広がりのほうが重要なのだ。
不動の瀧も信仰心があれば巨大な滝にもまさるパワースポットにもなりうるのだ。
不動の瀧の解説板も立っていたが時代を経て所々読みにくくなっていた。



利剣の瀧 
等々力の瀧とも呼ばれる等々力不動の瀧は 今から八百数十年の昔
高野山を中興し 根来寺を開創して量算の座主となられた
興教大師(覚鑁上人 かくばんしょうにん 1095年~1143年)が 
役の行者の利された不動尊の夢告により この尊像を奉 して 渓谷を逆上ると
 幽 な空気に満ち 所に到った
見上げるばかりの断崖の中段を ・杖を振っ
てうがつと 霊泉が ほとばしり出て瀧を成した
この瀧の上に 奉納した不動尊を安置し
たのが崖の上の御本堂の等々力不動尊である
四季に 枯れることのないこの瀧を
お瀧と呼んで 一心不乱に修行する人は今も多い
等々力の地名は 一説 瀧の轟く音に由来すると言い 
瀧轟山 という 山号にもなっている 
他の一説は 満願寺が深沢免々呂城内におり免々呂城(とどろき)の満願寺と呼ばれ
現在地に移転後もとどろきの満願寺と言った事から地名になったという
瀧 轟 山
等々力不動尊
満願寺別院


不動明王像
清水寺を思わせる懸崖作りが現れました。 三鈷剣の石像 下を通ります。
大きな紅い不動尊の提灯
鰐口と提灯 鰐口 鈴でしょうか。
中に上がりました。祭壇の左右に大きな文字が書かれた布が吊り下がっています。無邊と福智ですかね。
般若心経とお不動様の真言を唱えました。
本堂前に戻りました。
平成二十三年 辛卯歳
見晴らしのいい処です。この広い処で何をするのでしょうか。
境内に降りました。 明王院大師堂 額の向こうに人影が見えます。

玉川八十八ヶ所等々力不動尊
第十三番 厄除大師堂
わけのぼる
 はなのあらしの
  こずえより
とどろきやまに
 月ぞかがやく


遠くにお大師様が見えます。

弘法大師像

福智無邊誓願集

ふくちむへんせいがんしゅう
福智と智慧とは限りないが、
誓ってこの身に集め具えることを願う



施餓鬼會 
御護摩 奉修 

山門
扁額「瀧轟山」 等々力渓谷  等々力不動尊 四季の花の寺
目黒通りに出ました。 312 目黒通り     環八通り 目黒・柿の木坂
   瀬田     ↑      田園調布
←  環八通り →
歩道を駅に向かって真っ直ぐに進みます。 成城石井
15時24分等々力駅に着きました。