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7時42分 ホテルを出て多摩モノレールに向かいました。 |
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7時45分 立川北駅に着きました。 |
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ホームに上がると電車は51分発なのであまり待たなくても来ます |
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これは向こう側のホームに入ってきた電車で中央線の電車に似たイメージですね。 |
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電車が入ってきました。 砂川七番駅です。昔、砂川事件がありましたね。 |
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富士山が見えます。 |
玉川上水駅で西武拝島線に乗り換えました。 |
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8時29分 西武新宿線田無駅で降りました。昔の面影は全くありませんでした。もう何十年経つでしょうか。 |
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踏切は昔のままですね。駅前は広くなりました。 お寺さんは駅からすぐでした。 |
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多摩四国八十八ヶ所
弘法大師第三十三霊場
田無山 総持寺 |
田無山 総持寺 |
真言宗 智山派 |
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除夜
除夜の鐘の
法音を聞いて
新しい気持ちで
新年を迎えましょう |
参道から見た山門 |
観音様 戦災者慰霊 |
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太平洋戦争末期の1945年4月12日米軍B29の爆撃により田無駅前において
50数名の罪なき人々が一瞬にして爆死し、その他多数の人々が被災者となった。
更にこの年の8月15日の終戦までに田無全域において百数十の尊い命が爆撃の
犠牲となった。
1957年4月12日、被災地居住の歯科医海老沢太一氏が中心となり被災者遺族
及び篤志家により金物店主下田武主氏がその所有地を無償提供され駅前の爆心地に
観音像の戦災者慰霊塔が建立された。爾来、霊を同所で慰めてきたが、アスタビル
建設のため、1992年移転せざるを得なくなり、総持寺のご好意によりこの地を安住の
地と定める事となり移住した。
田無駅前被災の中心地には「田無平和の日」条例制定記念として祈念碑を設け、
この慰霊塔はこの地で平和のシンボルとして子孫が平和を享受出来るよう祈願する。
1999年4月12日
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高野槙
秋篠宮家ご長男悠仁親王殿下のお印です。
平成七年四月吉日
高野槙献木記念碑
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真言宗智山派 田無山 総持寺 |
扁額「田無山」 |
不動尊 |
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山門の正面には仁王様の阿吽像がいらっしゃいました。 |
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山門の裏側には広目天と多聞天がいらっしゃいました。
広 目 天
広目とはサンスクリット語で、ヴエルバークシャと言う。
もともとはヒンズー教の神様で顔に目が三つあって
ヴエルバークシャとは、通常ではない目を持つという意味から
この名がついたと思われる。
四天王の一人で須弥山の西方の中腹に住して西方を守護する。
従って胎蔵曼荼羅では天部に属し西に配される。
わが国では多聞天と対になっているのがほとんどである。
形像は甲冑をつけた忿怒形で神王の姿をしており右手に筆左手に経巻を
持っているのが普通であるが、三鈷戟という三つ又の鉾を持つものもある。
経巻と筆を持つ意味はお経を写し流布することの功徳を表している。
鉾は仏法の流布を邪魔する悪魔を摧破して迷者を仏教の世界へ導く
姿勢を表している。
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多 聞 天
多聞とは、サンスクリット語でクベーラと云う。
お正月に人々に親しまれている七福神のうちの一人である毘沙門さまの事である。
もともと仏の教えを広める為に、その持ち味を生かして活躍している善神である。
世の中の音や聲には大層敏感で人間界を始め有形無形の森羅万象から聞こえてくる
喜怒哀楽の音聲を感知する多聞の念力がある。
この浮世に迷い苦しむ弱者の味方となり悟りの道を教え導くのである。
その形相は鎧、甲冑で身を固めた武人の出立ちで右の手に三つ叉戟と言う三つの剣先の槍を持って
迷者の悪を払い左の手に福徳智恵がぎっしり詰まっている仏塔を持って篤信の者にご利益を与える。
又両足で邪鬼(あまのじゃく)を力強く踏みつけて仏の道に背く悪鬼を征伐している容姿である。
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本堂 |
弘法大師 |
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興教大師 |
興教大師と弘法大師 |
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西東京市指定文化財第三十三号
総持寺のケヤキ
ケヤキはニレ科の落葉高木です。
武蔵野は、古くから風の強いところとして有名でしたが、
この強い風を効果的に防いだのがケヤキなどの雑木林でした。
また、ケヤキは燃えにくく、火に強いことから防火にも役立ち、
材が硬いことから建築資材や農具の材料などにも用いられました。
古文書によれば西光寺(現総持寺)本堂は、築後140〜150年を経て大破したため、
本堂建て替え計画が天保十一年(1840)から持ち上がり、
西光寺の住職恵亮や田無村名主下田半兵衛が中心となり、準備が進められました。
そして、苦心の末、嘉永三年(1850)に本堂は完成し、普請成就供養が盛大に行われました。
その落成を記念して、境内にケヤキほか数種の樹木を植栽しましたが、
その中の一樹が本樹であると言い伝えられています。
平成五年五月
西東京市教育委員会
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弘法大師壱千百五十年御遠忌報恩塔 |
妙見堂 |
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扁額「妙見堂」 |
内陣 |
妙見菩薩御真言
おん
そじりしゅた
そわか
南無妙見菩薩 |
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滝の不動尊縁起
このみ堂にお祀りしてある滝の不動尊は明治十一年四月十三日下総国成田山新勝寺第十三世照輪僧正の開眼勧請し玉う所にして
当町柳沢の宿屋「田丸屋」の奥庭に祠を建て安置したのである。
爾来毎月二十八日に隣組の篤信者が中心となって多数の信徒と共に集り念佛講をつくり
毎月代参をご本山成田山に送り専ら不動尊の信仰を固め数々のご霊験をいただいて来た。
世変り時移って大正六年三月田丸屋から当山にご遷座になった。
尚お百度参りの目標であったこの百度石は多くの信者に心の安らぎ与えて来た。
昭和六十乙丑年極月二十八日 改修再建に際し録之
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百度石 |
ご本尊 不動明王御真言
のーまく さんまんだー
ばーざらだん せんだー
まーかろ しゃーだー
そわたや うんたらたー
かんまん
田無不動尊 総持寺
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西東京市指定文化財第二十七号
尉殿大権現神号額
江戸時代後期制作
明治元年(1868)、政府は神仏分離令によって、神社を寺院から独立させることとしました。
これによって明治五年(1872)、西光寺は総持寺と改称し、西光寺のもとにあった尉殿権現社は分離して田無神社と改称しました。
その際に「権現」は仏の位という理由から、江戸時代に尉殿権現社(現田無神社)の拝殿に掲げられていたこの扁額は取りはずされ、
同神社の別当寺にあたる西光寺(現総持寺)が引き取りました。
この扁額は、現在総持寺に引き継がれ、保管されています。
この扁額の材質は欅で、縁は花頭曲線式、赤漆を塗装し文字は金箔押しが施されています。
揮毫者は「東都 河保壽敬」と記されており、制作年代の記録はありませんが江戸後期(1851以降)と推定できます。
田無神社が、江戸時代に尉殿大権現と号していた資料として貴重な扁額です。
昭和六十三年九月
西東京市教育委員会
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西東京市指定文化財第九号
下田半兵衛富宅の木像
安政六年(1859)制作
総持寺境内妙見堂に保管されているこの木像は、田無村名主下田半兵衛富宅の像で、
安政六年(1859)富宅の生存中五十八歳の時に制作されたことが記録されています。
半兵衛富宅は江戸時代後期、田無村名主を勤め、さまざまな功績を残しました。
「備荒貯蓄に尽力し、尾張藩のお鷹場案内役となり、御用勤勉により、ご褒美をいただき、苗字を許され、
尉殿権現(現田無神社)本殿並びに拝殿を再建し、養老畑を以って老人を助けた」と、
この木像の納められている厨子の扉の裏側に漆書きしてあります。
なかでも養老畑は、当時には珍しい名主の善政で、現代の福祉行政の先駆と見られています。
昭和四十五年七月
西東京市教育委員会
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屋根にあります鬼瓦 |
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昭和四十年九月十五日 羅漢槙献木記念碑 |
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モダンな造りの鐘楼 |
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豆柿 どんな味がするのでしょうか。 |
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