第二番霊場 最乗寺 道了尊 清瀧不動尊
関東三十六不動霊場
第二霊場 大雄山 最乗寺 清瀧不動尊

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平成廿二年八月五日

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大雄山 最乗寺

清瀧不動尊

制叱迦童子

曹洞宗

御詠歌

にごりなき
真澄の月を
足柄の
杉のこのまに
見るぞうれしき
御朱印 御本尊御尊影 童子御尊影
お寺の縁起

開創の由来


 開山
了庵慧明禅師(りょうあんえみょうぜんじ)は、相模国大住郡糟谷(おおすみごおりかすや)の庄(伊勢原市)に生まれました。
長じて地頭の職に在りましたが、戦国乱世の虚しさを感じ、鎌倉
不聞禅師(ふもんぜんじ)に就いて出家しました。
能登
總持寺峨山禅師(がさんぜんじ)に参じ、更に丹波(兵庫県三田市)永沢寺通幻禅師(ようたくじつうげんぜんじ)の大法を相続しました。
その後、永沢寺、
近江總寧寺(そうねいじ)越前龍泉寺(りゅうせんじ)能登妙高庵寺(みょうこうあんじ)
通幻禅師の後席すべてをうけて住持し、大本山總持寺に輪住されました。
五十歳半ばにして相模国に帰り、曽我の里に
竺土庵(ちくどあん)を結びました。
そのある日、一羽の大鷲が禅師の袈裟をつかんで足柄の山中に飛び、大松(袈裟掛けの松)の枝に掛ける奇瑞を現じました。
その啓示によってこの山中に大寺を建立、大雄山最乗寺と号しました。
應永元年(1394年)3月10日のことでした。

道了大薩埵

 大雄山最乗寺の守護道了大薩埵は、修験道の満位の
行者相模房道了尊者(さがみぼうどうりょうそんじゃ)として世に知られています。
尊者はさきに
聖護院門跡覚増法(しょうごいんもんぜきかくぞうほう)親王に仕え、幾多の霊験を現され、
大和の金峰山、奈良大峰山、熊野三山に修行されました。
三井寺園城寺勧学の座にあった時、大雄山開創に当り空を飛んで、了庵禅師のもとに参じ、土木の業に従事しました。
約一年にしてこの大事業を完遂しました。
その力量は一人にして五百人に及び霊験は極めて多い。
應永18年3月27日、了庵禅師は75歳にしてご遷化されました。
道了大薩埵は「以後山中にあって大雄山を護り多くの人々を利済する」と五大誓願文を唱えて姿を変え、
火焔を背負い右手に拄杖、左手に綱を持ち、白狐の背に立って、天地鳴動して山中に身を隠されました。
以後諸願成就の道了大薩埵と称され絶大な尊崇をあつめ、十一面観世音菩薩の御化身であるとの御信仰をいよいよ深くしています。

                                             
大雄山 最乗寺ホームページより


                                                          
5時東の空が明るくなってきました。 海を見ていると漁船が港に戻ってきました。
朝日が昇ってきました。 8時31分真鶴駅に着き東海道線のホームで電車を待ちました。
8時32分発東京行きの電車に乗り、小田原駅で降りました。
乗り換えるため大雄山線の改札口に向かうと、大きな天狗さんが迎えていました。
大雄山線ホームには電車が待っていました。
大雄山最乗寺 道了尊御巡錫    時刻表を見ると9時48分発のバスがあります。今9時25分ですので少々時間があります。
             金太郎さんのふるさととは知りませんでした。     足柄山は若いとき何回か登ったことがありました。
一回りしてバス停に戻ってきました。
9時48分発のバスが42分に入ってきました。
9時59分道了尊に着くと、「了庵慧明禅師六百回大遠忌」の幟が何本も立っておりました。
大雄山安気地蔵札場  
延命 子育 安氣地蔵尊 10時1分 石段を上り始めました。
六百回大遠忌は今年なんですね。 石段はどこまで続くのでしょうか。
10時4分 三門が見えて来ました。
三門とは三解脱門で、空門・無相門・無願門の三境地を経て仏国土に至る門を言います。
三門内には、放光菩薩・四天王像・十六羅漢像が安置されています。

まだ石段は続きます。
大正四年 奉納 杉苗壱萬本 二十五丁 まだまだ続きます。
奉納した石碑がどこまでも続いています。 大雄山最乗寺全景
   ↑金剛水堂・多宝塔・不動堂・御真殿・奥の院・三面大黒殿     瑠璃門・書院・本堂・開山堂    ↑白雲閣
二十六丁目 杉木立はどこまでも続いています。
10時11分 總受付 右に曲がって石段を上っていきました。
瑠璃門から入りました。
瑠璃門を入ると、正面に書院がどっしりと構えてました。 右には白雲閣がありました。
大書院案内 真如台と称し当山山主の相見接待或は法益提唱茶禮等が行われるところである
昭和三十二年秋建立 約二百五十坪
光明亭
尚宝殿 江戸消防記念會 第十區 本堂  本尊釈迦三尊像
僧堂 扁額「選佛場」     修行僧が座禅を組む処で昭和29年に落成しました。
本堂の前に回向柱が建ってました。  平成二十二年五月二十七日
五色の縷(る)は御本尊の釈迦如来の指に結ばれています。
御本尊様は帷で見えませんでした。
天蓋は豪華な造りでした。
獨住第十九世法雲周行建立
金剛水
当山開創のとき、道了尊者は自から井を堀り、土中深く一類の鐵蘭得たがこれ当山の重宝、御金印(おかのいん)である。
この跡から清渕なる泉水が湧出し、以来600年衆人の活渦を救う金剛水と称して珍重される。
お堂は、昭和28年の再建奉納

金剛水堂 開山堂         扁額「金剛壽院」
昭和36年再建。
開祖了庵慧明禅師尊像等、歴代住持霊牌を祀る。
本堂と共に昭和の総檜造りの名建築である。
一擲(いってき)石 
妙覚道了の伝承の一つ。
寺を建設中、開祖了庵慧明が「道了道了」と呼んだら持っていた大石巨岩を立ちどころに捨て走って禅師の下に至り用務を済ませた。
その時捨てた岩がこれだという。
ほ組睦 鐘楼
御真殿への参道
途中に多寶塔がありました。
多宝塔は、神奈川県下で唯一の多宝塔遺構です。
曹洞宗の寺院としては珍しく、内部には多宝如来を祀った厨子(ずし)が安置されています。
心柱に残る墨書から建立は江戸時代末の文久3(1863)年で、願主は江戸音羽の高橋清五郎、工匠は大工棟梁の相模匠藤原直行、
彫刻師は後藤豊次郎であることが分かっています。
この多宝塔は、塔身が高く相輪が短いものの、その形態や彫刻のあり方に江戸時代の技術や手法をよく残しています。
方形層上円形木造二重の塔。
また二重構造のうち下部の四天柱をそのまま伸ばして、上部の側柱にするなど、珍しい手法も見られます。
多宝塔は、大正15(1926)年と昭和3(1928)年の二度の火災でも被害を受けることなく、建立当時の姿を残しています。
まさに、過去と現在をつなぐ歴史の証人としての役割を果たしているといえます。
市の重要文化財に指定されています。

中央に御供橋が、両脇に圓通橋があります。 結界門
結界門より道了大薩の浄域とされています。
その手前に御供橋・圓通橋があります。
中央に御供橋、両脇に圓通橋が並行しています。
御供橋は白装束を身にまとった修行僧が道了様へのお供えをする時に使用する為の橋です。
普段は通行することができないようになっています。



左の写真は御供式(ごくうしき)の始まる前の様子です。
  
御供式(ごくうしき)の始まる前
御供式(ごくうしき)の始まる前
扁額「結界」
「結界門」の両脇に立つ大天狗(鼻高天狗:右)と小天狗(烏天狗:左)。
巻物を持つ鼻高天狗は修験者風ですが、烏天狗の方は怒髪(怒りで髪を逆立てている)で中華風の甲冑を身に纏っています。
ここはパワースポットだそうです。
石段上に御真殿が見えました。
御真殿にも回向柱が建てられていました。
こちらは平成二十二年十一月三日に建立されていました。
道了大薩埵は、修験道の満位の行者相模房道了尊者として世に知られる。
尊者は先に聖護院門跡覚増法親王に仕え、幾多の霊験を現わされ、大和の金峰山、奈良大峰山、熊野三山で修行された。
三井寺園城寺勧学の座にあった時、大雄山開創に当たり空を飛んで了庵禅師のもとに参じ土木の業に従事、
約一年にしてこの大事業を完遂した。
その力量は一人にして五百人に及び霊験は極めて多い。
応永十八年三月二十七日 了庵禅師七十五歳にしてご遷化。
道了大薩埵は「以後山中にあって大雄山を守り多くの人々を利済する」と五大誓願文を唱えて姿を変え、
火焔を背負い右手に拄杖 左手に綱を持ち 白狐の背に立って、天地鳴動して山中に身をかくされた。
以後、所願成就の道了大薩埵と称され絶大な尊崇をあつめ、十一面観世音菩薩の御化身であるとの御信仰をいよいよ深くしている。
(しおりより)
奉納された大きな下駄が沢山ありました。
人の背丈よりも大きな特別な下駄がありました。    和合下駄  横浜和合睦會  
天狗さんの履き物は、高下駄だが、下駄は左右一対そろって役割をなすところから、
夫婦和合の信仰がうまれ、奉納者が後を絶たない。
十一面観世音菩薩 
御真殿の右に不動堂への案内がありました。
石段を降りると不動堂の入口の扉が開いてました。中に入りますと薄暗くてよく見えません。
暗くてうまく撮れませんでした。 御本尊 清瀧不動明王   
                         愛染明王(あいぜんみょうおう)       天祐不動明王(てんゆうふどうみょうおう)
不動明王 倶利伽羅龍 三明王
扁額「清瀧不動」 不動堂
関東三十六不動霊場
生かせ生命 燃やせ信火 いただかん加持力
道了尊 天狗化身像
火焔を背負い右手に拄杖左に羂索を持ち白狐の背に立って、
天地鳴動して山中に身をかくされた時のお姿でしょうか


了庵さんが亡くなった翌日に、道了さんは寺の者を集め
「これで私の仕事はすべて終わった。これから了庵さんのもとに行き、永久にこの寺を守り、
この寺にお参りにくる人々の七難八苦を救い、幸せな生活ができるようにお守りします。」
とお話になった。
そして、右手に拄杖を持ち、左手に羂索を持ち、白い狐にまたがって、
火焔を背負い山の奥の方へと消えていきました。
その後、村の人々は、道了さんは天狗になったと信じるようになったということです。
奥之院と参道
これより三百五十余の石段を登れば
奥之院 慈雲閣に到る
鎮護道了大薩埵の御本地
十一面観世音菩薩を奉安する
内陣
11時11分 石段少し上ると門がありました。
ここが結界門のように感じました。
石段を上がると大きな石が参道の真ん中にありました。
小天狗(烏天狗) 奥之院ははるか彼方です。 大天狗(鼻高天狗)
11時13分 まだ上り始めてわずかですが、だいぶ足にきています。 振り返るとだいぶ高い処まできています。
みずひきが可憐な花を咲かせていました。 11時19分 奥之院に着きました。 下を見るとよく上がってきたものだと感心しました。
道了薩埵の本地仏は十一面観世音菩薩です。
扁額「慈雲閣」  お詣りが済んで内陣の外に出ますと参詣者が訪れていました。
11時31分
上がってきた石段を下りていくのですが、
11時34分
途中で下りてきた石段を見上げました。
11時36分
あとわずかです。
11時37分 門まで下りました。 三面大黒殿に向かいました。
三面大黒天

箱根の清水の神様(箱根権現)
矢倉沢の燃料の神様(矢倉明神)
飯澤のお米の神様(飯澤明神)
三神の姿を一躰に刻んだ福徳円満の尊像です。
                                                
お堂の前には左の写真のように
子供を抱えている子育ての狛犬が安置されています。
母犬が子犬をお腹の下に入れて乳を飲ませています
全国でも珍しいそうです
この狛犬さんは、今から数百年前に祀られましたが、
不思議にも参拝者の悪魔を退いてくださるそうです。
 
打ち出の小槌 奉納 大雄山御神樹 三面大黒天御尊像 奉納  三面殿
当山鎮守三面大黒天を奉安する
開創にあたりその工を助けた飯澤、矢倉の
二明神と箱根権現の三身を一躰とした
福徳圓満の御像である
永世にわたり米、薪、水を当山に
供養さるヽという
昭和五十二年秋再建
結界門の裏側 結界門から御供橋・圓通橋を見ました。 結界門
多宝塔
多宝塔は、神奈川県下で唯一の多宝塔遺構であり、曹洞宗の寺院としては珍しく、内部には多宝如来を祀った厨子(ずし)が安置されています。
心柱に残る墨書から建立は江戸時代末の文久3(1863)年で、
願主は江戸音羽の高橋清五郎、工匠は大工棟梁の相模匠藤原直行、彫刻師は後藤豊次郎であることが分かっています。
この多宝塔は、塔身が高く相輪が短いものの、その形態や彫刻のあり方に江戸時代の技術や手法をよく残しています。
方形層上円形木造二重の塔。
また二重構造のうち下部の四天柱をそのまま伸ばして、上部の側柱にするなど、珍しい手法も見られます。
多宝塔は、大正15(1926)年と昭和3(1928)年の二度の火災でも被害を受けることなく、建立当時の姿を残しています。
まさに、過去と現在をつなぐ歴史の証人としての役割を果たしているといえます。
市の重要文化財に指定されています。

喉が渇いたので金剛水堂で冷たいお水をいただきました。
尚宝殿 廻廊
江戸消防記念第四區 猿楽町 湯島 江戸消防記念会 第十區 赤羽北 西台町  鎌倉總組 小泉純一郎の名があります。 
白雲閣の總受付で御朱印をいただきました。
もう一度広い境内から暑い夏の日射しを受けている僧堂、書院を見ました。
杉の木立の中に入ると涼しいです。  相生橋を渡ると
御開山座禅石が一段高い処にありました。
明徳年間(1390) 了庵慧明禅師が曽我の竺土庵(ちくどあん)に閑居のとき 
一羽の鷲が禅師の袈裟をつかんで飛び去り、当山中の大松の梢に掛けた。
禅師は袈裟を探して山中に入り、ついにこれを発見し、
大松の近くの坐禅石上に端坐すると袈裟は梢から離れて禅師の肩にかかった。
この奇瑞によりこの地を佛法興隆の処と定めて、大雄山の開山を発願したものである。
昭和六十二年一月吉日
扁額「大雄山」の三門を出ると、バスが待っているバス停に向かいました。
今12時17分ですから25分のバスに乗れます。
12時23分バスがやってきました。
12時36分大雄山駅に着きました。
12時40分発の電車で小田原に向かいました。
13時2分小田原駅に着きました。
お昼時を過ぎていましたのでお蕎麦屋さんに入りお蕎麦をいただき、小田原駅から横浜に向かいました。